成長社会でリーダーに求められていたものが具体化の能力だとすれば、成熟社会がリーダーに求めるものは抽象化の能力ではないだろうか。万人共通の理想や問題が明確にあれば、一定のルールの上で競争ができ、具体化の優劣で勝敗が決する。しかし、現在は理想も問題もますます多様化し、ルールが曖昧なうえに競争相手すら見えない。こうなるとリーダーは具体的な行動以前に、非常に抽象度の高い思考を強いられる。
  政治思想の書やニーチェの解説書がビジネスパーソンに売れているのは、案外、こうした背景があるせいなのかもしれない。かつて前提として機能していた秩序やルールが失われたポストモダン的状況に多くのビジネスがおかれているのだ。
  このような中心なき混沌のなかで、ふたたび中心を志向する大きな動きが、全体を再秩序化しようという動きが、ビジネス界に現れている。それを象徴するのが、プラットフォーム戦略だ。アップル、グーグルを代表とするプラットフォーマー企業の目指す世界像は、そのままイデオロギー化していくように思える。なぜならプラットフォーマー企業の掲げるビジョンは、非常に支配的に機能しそうではないか。
  今号の特集タイトル「プラットフォームへの意志」とは、ニーチェの「権力への意志」から拝借したものだ。権力への意志、あるいは力への意志の意味、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」は、プラットフォーマーが目指すものそのものを指しているような気がする。
  とはいえ、かつて近代化のなかでいくつかの巨大企業がビジネス界から社会を支配していったこととは何かが違うのも事実だ。その違いの根拠はポストモダン的状況にあるのか。もしかしたらIT化時代のプラットフォーマーが策定するルールの支配力が、アーキテクチャによるということの違いなのかもしれない。
  こうした思いを出発点にして、今号の制作にあたってきた。多くの専門家、ジャーナリストの寄稿をえて、取材をするなかで見えてきたのは、しかし、当初の考えとは逆のものだった。
  それをどうとるかは読者のみなさんに委ねるしかないが、見えてきたキーワードは「ユーザーの復権」だった。フラット化した世界では、プラットフォーマーもユーザーも持ちうる権力に大きな差はないということだろうか。あるいは、それは近代化などよりもっと以前の時代の繰り返しなのだろうか。目の前にひろがるのは、手つかずの荒野だけという時代の――。だとすれば、次にくるのは激しい戦いの時代だ。いずれ、互いの領地が肩を触れるようになるのだから。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とはビジネスリーダーが好んで使うアフォリズムだ。しかし、どの時代を、どの歴史を参照するかは難しい選択だ。プラットフォーム戦略のために、どの歴史を学ぶべきなのか。近代初期のようでありながら、きわめてポストモダン的な状況でもあるインターネットの世界。プラットフォーマーにとっては近代に似た時代であり、それ以外の、たとえばプラットフォームにモジュールを提供する者にとってはポストモダンな時代状況というねじれも浮かび上がってくるようだ。

「IT批評」編集長 桐原永叔